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サッカーうんちく小辞典1



サッカーうんちく小辞典1



◆フットボール(football)=サッカー(soccer)

 ボールや球状の物を蹴るゲーム・試合は世界各国で古来からあった(1500年前の日本の蹴鞠競技、イングランドの村対村でボールを持ち帰る祭り等)。

 欧州各国でそれぞれに異なるルールでゲームが行われていたが、1863年にイギリスでフットボール協会(アソシエーション)が結成されルールを整備したことが始まり。これに基づくスポーツをアソシエーション・フットボールという。

 サッカー(フットボール)は、世界で最も人気のあるスポーツ。

 サッカーは、比類なき人類最大の文化であり、人類最大の平和的創造物でもある。




◆サッカー(soccer)
 サッカーという言葉はアソシエーション・フットボール(association football)の愛称。

 世界的にはフットボール(football 英語)の各国語読みや意訳(例 蹴球 中国、日本など)でよばれる。「サッカー」はアソシエーション(a ssoc (-er) iation)から派生した言葉。アメリカ、カナダ、日本、オーストラリア等の一部の国で使われているが徐々に広まってはいる。


◆日本サッカー協会(JFA)(Japan Football Association)
1921(大正10)年に創設され、2003年現在の会長は、10代目の川淵三郎(愛称・川淵キャプテン)。FIFA加盟は1929年。


◆天皇杯
 JFAが主催する国内最大の大会が正式名「天皇杯全日本選手権」。草サッカーチームなども含めた協会加盟チーム、クラブがすべて参加できるトーナメント戦で、1996年度の第76回大会からは、高校チームなどの地区予選を勝ち抜いた全国47都道府県代表と、Jリーグ全チーム、JFLと大学サッカーのシードチームによる80チーム以上が日本一を争うビッグイベントになった。地区トーナメントを勝ち抜いた高校チームとJリーグクラブの対戦が毎年何試合か行われ冬の趣となっている。決勝戦は毎年1月1日に東京・国立競技場で行われる(元旦恒例)。




◆2002年ワールドカップの日韓共催の決定

 2002年に日韓で開催された第17回ワールドカップは、1986年に当時のアベランジェFIFA会長(ブラジル)がこれまで欧州と南北米大陸で交互行われてきた開催地に、初のアジア・アフリカ開催を打ち出し、まもなく会長から暗に打診を受けた日本サッカー協会が各国に先駆けて招致に名乗りをあげた。

 日本招致の動向を知ると、遅れて韓国も1993年11月から政財界をあげての招致に乗り出した。結局、日韓以外の立候補はなく、アジア2カ国だけが正式に立候補した。

 開催国は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定だった。アベランジェ会長の会長続投を阻止しようと、反アベランジェ会長派の欧州の理事たちは、共同開催を強く推進し、欧州の反会長派は日韓共催、南米の会長派は日本単独開催を支持、アフリカ理事らの動向が投票を左右することとなった。

 結局、欧州理事らがアフリカ理事票を押え多数派となり、投票前日の定例理事会前のパーティー会場でアフリカ理事らのようすから、ことを悟ったアベランジェ会長自身が、日韓両国による共同開催を理事会で提案、事態は急変。
 日本単独開催を支持していた会長派の南米理事も同意し、理事会は満場一致で可決され、歴史的なW杯の二カ国共催が決定した。

 日本はまさかの共同開催決定に涙をのみ受け入れを表明。受け入れを拒否した場合は、韓国の単独開催か、開催地決定の延長と中国開催の可能性があった。 ※ しかし、韓国は経済危機で財政的に韓国単独開催が無理な状況であり、共催による日本からの融資により韓国のスタジアム建設が行われた。
 決着はアベランジェ会長・南米派と反会長・欧州派のFIFA内部の政治的対立の産物でもあった。後にアベランジェは会長職を引退。


 ※反論がある方は ここ を参照してください。



◆全てのかんむりの付かないものはサッカーを指す

 バレーボールの世界大会は、バレーボールワールドカップ、野球の世界大会は、ベースボールワールドカップであるが、ワールドカップといえばサッカーの世界大会を示す。かんむり言葉の付かないものはサッカーを指すのが世界では一般的になっている。サッカーに関してはあたまにサッカーという言葉をつけなくてもよいのが通例だ。アメリカ文化圏以外の国において、話の中でカップ戦といえば、サッカーの国内・国際カップのどちらかを指すほどである。どの国も、スポーツ=サッカーの意識が強い。近年、日本でも「代表」と言えばサッカー日本代表を指すようになってきた。




◆移籍規程 頻繁な移籍交渉
 プロサッカー(Jリーグ)が、日本の他のプロスポーツ、プロ野球や実業団陸上などと大きく異なるのが移籍規程である。
 プロサッカー選手は契約期間満了の3カ月前になれば、所属チームの承諾なしに自由に他のクラブと移籍交渉ができる。(通常12月末日までの天皇杯までの契約なので10月頃から選手と他クラブとの接触や噂が飛び交う)契約期間が満了すれば、他のクラブへの移籍が完全に可能となる。Jリーグでは原則的に選手・スタッフの移籍の自由を認めている。
 ただし、その選手を獲得したクラブは元のクラブに高額の移籍金を支払って補償しなければならない。移籍金は、その選手の前年の年俸に、Jリーグ機構が年齢ごとに定める基準(係数)を掛けて算出される。年齢別係数は6つに区分されており、16歳以上22歳未満が最も高く7.5倍で、年齢が増すごとに下がり、34歳以上はゼロ(2004年現在段階的に30歳以上に移行中。)となっている。実際に若い選手の移籍で係数通り支払われると莫大な金額になるため、クラブ移籍交渉担当者同士の交渉やトップ会談(クラブ社長同士の交渉)によって移籍金額において激しい交渉が行われる。




◆移籍  原則的に移籍の自由のねらい

 選手の移籍には優秀な選手に活躍の場を与えるとともに人材不足のチームの強化に役立て、ひいてはリーグ全体を活性化しレベルアップをはかるねらいがある。
 優勝を争うような選手層の厚いクラブで試合に出られない優秀な選手がいる場合、或いは監督が変わりシステムの変更や好みで使われない優秀な選手がいる場合、1つのポジションに複数の優れた選手がいる場合、経営の縮小、チームの若返りを図る等のとき選手の放出の移籍は有効な解決手段の一つである。

 移籍により選手を獲得するクラブはポジション強化を図ることや、ベテラン選手を獲得する事でチームや若手へのいい影響を期待したり、ケガや引退、移籍により抜けた穴を移籍により補充することがねらいとなる。

 プロのクラブは選手の発掘・獲得や育成のため施設・設備や優れた指導者に大きな資金を使っている。
選手に資金投資し価値有る選手になるまで育成したわけであるから、当然移籍先のクラブには資金の回収を要求できる。また、選手を保有していた場合に得られるであろう利益も算定要求する。移籍金の発生である。選手の戦力評価が移籍額算出に結びつくことは当然であるが、マネジメントとしてファンやスポンサーの付く選手ほど移籍金は高くなる。移籍金は社会の経済的要因にも左右されTV放映権料や景気によっても上下する。




◆期限付き移籍制度(レンタル移籍) 行い易い移籍

 完全移籍より安価で容易な選手のレンタルシステム。通称 レンタル移籍制度。トップの試合出場の少ないか全く無い選手を他のクラブにシーズン単位等の期間付き契約で貸し出す制度。

 手続きは通常の移籍と同じで、選手への期間俸等は移籍先のクラブが支払う。移籍先クラブから保有クラブへのレンタル料(期限付き移籍の移籍金)も交渉により支払われる。

南米各国で頻繁に行われているが、欧州では国によって対応が分かれている。日本はその中間タイプ。




◆トヨタカップ時代のクラブ
第1回1980年
ノッティンガム(イングランド)0-1 ナシオナル・モンテビデオ(ウルグアイ)

第2回1981年
リバプール(イングランド)0-3 フラメンゴ(ブラジル)

第3回1982年
アストン・ビラ(イングランド)0-2 ペニャロール(ウルグアイ)
第4回1983年
ハンブルガーSV(西ドイツ)1-2 グレミオ(ブラジル)

第5回1984年
リバプールFC(イングランド)0-1 インデペンディエンテ(アルゼンチン)

第6回1985年
ユベントス(イタリア)2-2(PK4-2)アルヘンチノス(アルゼンチン)

第7回1986年
ステアウア・ブカレスト(ルーマニア)0-1リバープレート(アルゼンチン)

第8回1987年
FCポルト(ポルトガル)2-1ペニャロール(ウルグアイ)

第9回1988年
PSVアイントホーフェン(オランダ)2-2(PK6-7)ナシオナル・モンテビデオ(ウルグアイ)

第10回1989年
ACミラン(イタリア)1-0ナシオナル・メデリン(コロンビア)

第11回1990年
ACミラン(イタリア)3-0オリンピア(パラグアイ)

第12回1991年
レッドスター・ベオグラード(ユーゴスラビア)3-0コロコロ(チリ)

第13回1992年
FCバルセロナ(スペイン)1-2 サンパウロFC(ブラジル)

第14回1993年
ACミラン(イタリア)2-3 サンパウロFC(ブラジル)

第15回 1994年
ACミラン(イタリア)0-2ベレス・サルスフィエルド(アルゼンチン)

第16回1995年
アヤックス(オランダ)0-0(PK4-3)グレミオ(ブラジル)

第17回1996年
ユベントス(イタリア)1-0リバープレート(アルゼンチン)

第18回1997年
ボルシア・ドルトムント(ドイツ)2-0クルゼイロ(ブラジル)

第19回1998年
レアル・マドリード(スペイン)2-1バスコ・ダ・ガマ(ブラジル)

第20回1999年
マンチェスターU(イングランド)1-0パルメイラス(ブラジル)

第21回2000年
レアル・マドリッド(スペイン)1-2 ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)

第22回2001年
バイエルン・ミュンヘン(ドイツ)0-0(延長 1-0)ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)

第23回2002年
レアル・マドリッド(スペイン)2-0 オリンピア(パラグアイ)


◆年俸

 Jリーグプロ選手の年俸は、基本給、出場給、ボーナス給(勝利ボーナスやタイトル料など)の3つからなり、1年間の試合での記録を査定した実績評価となる。得点やパス成功は加点、失点やミスプレーは減点として膨大なデータから年俸が算定されるタテマエがある。だが、実際にはクラブの経営規模に差があることや、中心選手や代表経験者、ベテラン選手には多く支払われたりと絶対評価ではなくチーム内の基準値評価があるようで、実績評価ばかりの算出とはいえない点もある。年俸算出と選手との年俸交渉契約スタッフが旧来の日本的な考え方であると金額のお落しどころを決めて年俸契約交渉に入るため選手たちの不満も多い。査定・年俸交渉スタッフの人選を間違えるとクラブにとってたいへんなことであるし、逆に査定・年俸交渉にそのクラブの体質・性質が表れるといってよい。トラブルがあるクラブはだいたい決まっているものだ。

 Jリーグには新人との巨額な契約金は無い。新人選手の契約には引越しなどの費用として数十万の支度金が支払われるのみだ。移籍の頻繁なJリーグにはクラブに選手生命を買い取る考え方が無く契約金も無意味なためだ。16歳以上ならば高校在校生でもプロ登録・Jリーグ出場ができる。契約期間も16歳からの複数年も可能となる。




◆Jリーグ(J. League)の歴史
 Jリーグは日本プロサッカーリーグ(Japan Professional Football League)の愛称。日本サッカーリーグのプロ化を決めた日本サッカー協会が1991(平成3)年2月、参加10チームを選び、プロリーグを統括、運営する日本協会の下部組織(社団法人)として同年11月に設立した。参加チームには、
(1)法人化
(2)地域に根ざしたホームタウン制の確立
(3)1万5000人以上収容の本拠地スタジアムの確保
(4)少年までの年齢層ごとのチーム、育成組織の保持
などの条件を義務づけており、将来的にはさまざまなスポーツを地域の大人から子供までが楽しめる総合スポーツクラブとすることを目標としている。
 この創設理論に基づいてチーム名から企業名を一掃した。1995年2月には「地域名プラス愛称」を「呼称」として規約化した。1991年11月の設立時の参加チームは
鹿島アントラーズ、ジェフユナイテッド市原(ジェフ市原)、浦和レッドダイヤモンズ(浦和レッズ)
ヴェルディ川崎、横浜マリノス、横浜フリューゲルス、清水エスパルス、
名古屋グランパスエイト(名古屋グランパス)、ガンバ大阪、サンフレッチェ広島
 1993年5月15日にこの10チームで第1回リーグが開幕した。2年目の1994年には、下部組織のジャパン・フットボールリーグ(JFL)からベルマーレ平塚とジュビロ磐田の正式加盟が認められ、1995、1996年は2チームずつ、1997、1998年は1チームずつがJFLから昇格した。1999年からは欧州や南米各国なみの1、2部制を実施。1部(J1)は16チームとなり、
年間総合成績の下位2チームが2部(J2)の上位二チームと自動的に入れ替わることになった。

 Jリーグの公式戦にはリーグ戦とカップ戦がある。Jリーグは延長を終えても勝敗が決まらなければペナルティーキック(PK penalty kick)戦を行って勝ちチームを決定し、引き分けをなくしたことも特徴だったが、1999年の1、2部制移行にともないPK戦を廃止し、延長でも決着しなければ引き分け勝ち点1とすることにした。Jリーグカップは第1回リーグ開幕に先立つ1992年秋に初の公式戦として実施された。1995年はスケジュール上の問題で中止されたが、1996年に再開開催した。


◆Jリーグクラブの経営の健全化

 1996年頃には1993、94年の開幕時のような爆発的なブームは去り、観客動員は徐々に低下。長引く不況と観客動員の落ち込みはJリーグの経営環境にも影響を及ぼした。

 準加盟が認められてから3年連続で昇格に失敗した鳥栖フューチャーズは累積赤字を抱えて1997年1月に解散(サガン鳥栖として再出発)するなどのケースも起きた。

 1998年10月には横浜フリューゲルスのメインスポンサーだった全日空(ANA)が、共同出資していた(ゼネコン大手の)佐藤工業の撤退を受けてチームを横浜マリノスに吸収される形で合併することで横浜マリノスと合意、Jリーグも超法規的措置として承認した。リーグ創設以来初のチーム合併で、新名称は横浜F・マリノスとなった。

 11月にはヴェルディ川崎も観客激減と成績低迷などのため、出資企業のうち、社長がJリーグの理念を批判していた読売新聞社が撤退を決定、日本テレビの100%出資となって多くの選手を放出した。
 ベルマーレ平塚も筆頭株主だったフジタの業績不振により経営規模を大幅に縮小したが、1999年にフジタが撤退を表明したため、ベルマーレ湘南とチーム名を変更して地元資本による存続を図ることになった。
 横浜フリューゲルスの事実上の消滅にはサポーターらの反対運動が起こったが、全日空は合併撤回を拒否。サポーターらは再建資金を募り、日本初の市民会員制度を柱とする新チーム、横浜FCを発足させてJリーグを目指すことになった。日本サッカー協会も1999年2月に特例としてJリーグ二部(J2)の下部組織、日本フットボールリーグ(JFL)への準加盟を条件付きで認めた。

 一連の事態に日本サッカー協会とJリーグは各クラブの経営環境の悪化をふまえ、1999年にプロ選手の新契約制度を導入。年俸480万円以上の選手を1チーム25人までとするなどの人件費抑制策を打ち出している。 
 しかし、準加盟チームに加えて1997年にJFLと地域リーグを合わせて9チームがJ2加盟を申請(承認は7チーム)するなど各地でJリーグ入りを目指すクラブ創設の動きは毎年のように続いている。

 そして、2000年になる頃には少しずつ安定した観客動員を重ねて、安定した黒字の見込める健全経営の人気クラブが増え始め、今だ赤字に低迷するクラブとの間に差が開きつつある。Jリーグも各クラブ経営の競争による淘汰の時代に入っている。




◆サポーター(supporter)

 支持者を意味する英語。単なるサッカー愛好者(ファン)という意味合いと区別して、ある特定のクラブをひいきにして応援する人々のことをさして使う。






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